八代将軍吉宗の時代


七代将軍・家継は8歳になった時、風邪をこじらせ容態は悪化

生母・月光院(お喜世の方)と間部詮房は大慌て

そしてとうとう家継は危篤状態になってしまったのです

六代将軍・家宣の正室だった天英院(照子)は、月光院に対抗すべく家継継嗣問題にガンガン入ることになりました

天英院が選んだのは尾張の徳川継友

が、「将軍家は古くから尾張を避ける習慣があるので、尾張から将軍を受け入れるのはいかがなもんか?」とケチがつきはじめた

この天英院の動きに、慌てて月光院らが出してきたのが紀伊の吉宗だったのです

吉宗は紀州藩主になってから財政建て直しに大成功していたました

そのため、おメガネにかなったのです

そしてとうとう家継が死去

天英院の選んだ継友は、尾張ということで却下されてしまい、天英院が押した吉宗が新将軍になったのです

仕方なく天英院は「次の将軍は吉宗である」と発表されたのです

女の戦いの結果生まれた、32歳の新将軍の誕生でした

ちなみに吉宗は身長が180センチあり、色黒のアバタ面であまりかっこよくなかったらしい



ちなみに新将軍に選ばれた吉宗は「私よりもふさわしいお方がおります」と、尾張の継友を将軍にするよう言いましたが、その意見は却下されました

紀州では吉宗が将軍になったことを知りビックリ

吉宗が江戸にとどまることになったと聞いた家臣らは、何がなんだかさっぱりわからなかった。

皆まさか吉宗が将軍になるとは思ってもみなかったのです。

領民らは嬉しいよりもこれから紀州藩はどうなるんじゃ?と心配しまくった

新将軍となった吉宗は、まず間部詮房と新井白石をクビにしました

そして紀州で行った改革を全国規模に拡大し「享保の改革」と呼ばれることとなるのです


御台所 真宮理子

吉宗が紀州にいた頃に京都からやってきた正室

吉宗23歳、理子は16歳でした

この頃、吉宗にはすでに何人もの側室がいたため、理子は寂しい生活を送ることに

もともと吉宗は、将軍になることはまずない立場であった

紀州徳川の三男であったためである

そのため、自由気ままな生活を送っており、好みのタイプは野性的(?)な女性で、宮家で大事に大人しく育てられた理子は吉宗の一番嫌いなタイプ

さらに理子は体が弱かった

20歳の時に風邪をこじらせ、死んでしまったのです

吉宗はその後正妻を1人もとらなかった

そのため、自分を将軍にするよう策略をたててくれた月光院と「怪しい仲」を噂されるようになるのです

月光院

六代将軍家宣から最大の寵愛を受けていた(月光院)お喜世の方

そして七代将軍の生母であったため、大奥内において権力を握りまくっていた

家宣正妻・天英院とは非常に仲が悪く、八代将軍を決める時には、お互い火花を散らしまくっていた

が、結局は月光院の押した吉宗が八代将軍に

天英院は仕方なく、吉宗を将軍に任命する

この月光院と吉宗の間には、醜聞が噂されていた

月光院が吉宗を新将軍にとプッシュしている間に、できてしまった・・・噂になりまくっていた

吉宗が将軍になってから正妻をとらなかったのは、月光院が大奥にいたからといわれています

お須磨の方

お須磨の方は、松平時代から仕えていた大久保家の娘

いつ手を付けられたかはわかりませんが、吉宗に寵愛を受けていたと言われています

長男の家重(のちの九代将軍)を出産しました

正室はすでに死んでいたので、奥では大事にされていました

そして再び懐妊しましたが、難産で母子ともに死去

まだ18歳でした

お須磨の方が出産した家重は、幼い頃から病弱で頼りなく、↓のお古牟の方が生んだ次男宗武の方が全てにおいて秀才で、次期将軍にとの声が大きかった

が、吉宗は家康が長男・家光を選んだことを見習い、多少頼りなくても長男である家重を将軍にすることとなったのです

お須磨の方も、お古牟の方も若くして死去したため、大奥において壮絶な戦いは繰り広げられませんでしたが、多分2人が生きていれば、女の戦いが勃発していたことでしょう

お古牟の方

吉宗が紀州藩にいたころからの側室

家臣の娘です

のちに御三卿の一つとなる田安宗武を出産するも、病気となり23歳の若さで死去してしまった

お梅の方

京都出身の娘と言われている

16歳の時に紀州和歌山城に奉公にあがり、吉宗の生母に仕えた

そして19歳の吉宗が、母の目を盗み手をつけたらしい

吉宗が将軍になると、本丸に入り、三男を出産するもすぐに死亡

さらに四男を出産しましたが産後の経過が悪く、赤子を残し死去してしまった

この子が一ツ橋宗尹となります

お久免の方

紀州時代の家臣の娘

奉公に上がり、仕事をしている時に吉宗に手をつけられた

そして姫を出産するも、すぐに死んでしまった

お久免の方は、吉宗の側室の中では81歳と、一番長生きした

あまり派閥に巻き込まれることなく、静かな余生を過ごすことができたそうです

本気NO1 竹 姫

吉宗は享保の改革など倹約に力を入れたりと、徳川将軍の中でも名君と言われていますが、女性関係は結構派手でした

この竹姫も吉宗とのスキャンダルで騒がれた女性です

竹姫は、五代将軍綱吉に寵愛されていた大典介の養女

婚約者がいましたが、なんと婚約者が死去

さらにまた婚約するも、またまた婚約者が死んでしまったという不幸の持ち主

そのうち時代は動き、竹姫の存在は忘れらていました

そんな竹姫に吉宗が手をつけたのです

吉宗は竹姫を正室にしようとしましたが、六代将軍家宣の正室・天英院が大反対

「竹姫は綱吉の養女ですよ?吉宗にとっては血のつながりはなくとも大叔母にあたります!そんなのダメ!」ということでした

ちなみに、天英院が反対したのは、吉宗のことが好きだったから嫉妬したという噂もあり

こうして吉宗は竹姫を諦めざるを得なかったのです

そこで吉宗は竹姫を幸せにしてあげるべく、いい所に結婚させることに

選んだのは薩摩藩の城主・島津継豊

島津継豊は妻が死んでしまい、独身でした

外様大名が将軍の娘を正室に迎えるということは、ものすごい光栄なことだったのです

が!本来は光栄なことだというのに、吉宗と竹姫のスキャンダルはみーーーんなが知ってること

そんな女性と結婚したくない!と島津家は反抗してきたのです

そして「竹姫と結婚させたいなら、この条件を飲め」と三つの条件を出してきました

竹姫から男子が生まれても後継ぎにはしない
薩摩藩の江戸屋敷に水道を引け
隠居後は自分の国で暮らしたいから、許可しろ

というもの

このお願いは島津にとって嫌がらせでした

これだけ無茶を言ったら吉宗も諦めるだろうと考えていたのです

ところが吉宗はこの3つをOK

こうして島津家は欲しくもない正室・竹姫をもらうことになったのです

竹姫が島津に嫁に行く時、吉宗は今までにないような豪華な花嫁道具を持たせました

が、島津に嫁に行った竹姫は、夫にもうざがられ、家臣からも冷たくされるという寂しい日々を過ごしたのです

夫の島津継豊が死去してからは尼となり、仏にすがって行き続けました

とても不遇な一生を終えたのです

その他の女性

吉宗は倹約家だったくせに、女性にかけては活発な行動をしてました

そのため「天一坊事件」という「オレは吉宗の落としだねだ」というデマを言い出した男が出たりしました

吉宗も「もしかしたらあの時やっちゃった女の子供か?」と思いあたるふしがあったりなど、身に覚えがあったため、江戸中をびっくりさせる事件となってしまったのです

そのほかにも、紀州時代に遊びに出かけたついでに手をつけちゃった女性など、かなり数多くいるそうです